古墳整備事業・・・古墳調査
Shujitsu.1 号墳  ( 通称 : 操山89号・S60号墳 )
この古墳は『就実・森の学校』の中心的位置にある古墳で、墳丘は流失し巨石が露出しています。
築造は古墳時代後期(5世紀後期~6世紀後期)と推定されます。
畿内の天皇陵から各地方の小さな古墳まで、埋葬者が誰で何時の時代の築造か、記録された古墳はありません。そのため被葬者が生前使っていた品物が埋蔵されている場合、その埋蔵品から年代を測定するのですが 殆どの古墳は盗掘に遭い何も残っていません。ただ中には貴重な物が盗掘を免れた物もあります。
詳細については岡山市埋蔵文化財センターを訪ねて学芸員の説明をお聞き下さい。センターでは常時発掘した貴重な物を展示しています。見学しては如何でしょうか。
(岡山市埋蔵文化財センターの所在は:岡山市中区網浜834ー1 Tel086-270-5066 Fax086-270-5067)

概観
Shuijitu1_01
派手に立ち返っているのは天井石です。 自然災害による崩壊ではありません。
昭和37年(1962)頃、岡山県立操山高等学校・歴史研究部の作成した詳細図(図1)で見る天井石の状態は現状とは違います。
53年の間に何があったのでしょう。

図1 Shujitsu.1号墳は、笠井山の南面中腹に位置し南に開口しています。
古墳型式は古墳時代後期に盛んに造られた、山寄せの横穴式古墳で、家族墳です。
羨道は天井高が、僅か40cm程ですからヘルメットと手袋は欠かせません。
古墳用語で山寄せとは、山の斜面に山を背にして築造したものを言います。

羨道(せんどう・えんどう)は玄室と下界を繋ぐ通路。追葬のための通路で普段は石を詰めて塞いでいます。 持ち送りとは玄室床幅より側壁の天井部が狭くなるように石を積み上げたものを言います。
簡単に言えば台形の様に玄室空間になったものを言います。
羨 道
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通常、玄室と羨道の床面は同じで、玄室の天井高は一段高くなっています。 玄門(サイズが合います)羨道石の一部 天井石  


外観からすると、玄室は程々に残っています。
古墳は外部から見るだけでなく、出来れば玄室に入って先人の苦労と信念を感じ取ってください。 現在の様な機械も無い時代に、この巨石を移動させた道具として修羅があります。 しかし修羅だけでは説明の付かない点が多くあります。
古墳内部の物は“枯れ葉、木クズ”以外の物は持ち出さないのがマナーです。

玄室内
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玄室内は外観からは想像できないほど良く保存されています。
天井高が 1m40cm(現状)ですが40~50cm埋没しているものと思います。
奥壁の鏡石におむすび型をはめ込んだ為、相当苦労しています。
おむすびの上の石くらいのが、おむすびの下にあるのかも知れません。
側壁は微少な持ち送りが見られ、表面は平らな石を揃え、さすが後期ともなると技術の進歩が見られます。
それにしても奥壁はパズルを見ている様で面白いです。

d=6.5m w=1.3m h=1.4m(現状)
[d・w・hは d(depth)奥行き w(width)奥壁の幅 h(height) 高さの各サイズを 表しています。]


奥壁からの景観

Shuijitu1_05 奥壁から羨道側を見ています。
下の丸い石は天井石の崩壊時に落下したものです。
今はガタガタですが、築造当時はスッキリした良いお墓だったと思います。
埋没した分を掘り出すと石棺、または石障等が出てくるかも知れません。。